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世田谷ふるさとめぐり(用賀・馬事公苑コース)

事務局03-5717-3393

〒158-0097 東京都世田谷区用賀4-11-15-201

世田谷ふるさとめぐり(用賀・馬事公苑コース)

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用賀・馬事公苑てくたくコース

玉電用賀駅跡

1.玉電用賀駅跡
(たまでんようがえきあと)

用賀4−3

明治40年(1907)4月、この道に玉川電車が通りました。ガタゴトと路面を走る電車で多摩川の砂利も運びましたのでジャリデンとも呼ばれました。 石油ランプを使っていた沿線の家々には電灯もつくようになりました。電気を使う生活の始まりです。 用賀駅には電車の折返所もでき、駅前にあった用賀梅林には赤坂や青山方面から子ども達が遠足に来ました。 駅の待合室は子ども達のたまり場となり、近くの子ども達もよく遊びました。 数々の出会い、別れの想い出を綴りながら、昭和44年(1969)5月、玉川電車廃止にともない、玉電用賀駅はその姿を消しました。

真福寺

2.真福寺(しんぷくじ)

用賀4−14

このお寺は今から約400年前に創建されたといわれ、大山道(おおやまみち)に山門があって赤く塗ってあったので赤門寺とも呼ばれていました。ご本尊は大日如来という仏さまで、開山は宗円和尚、開基した人は飯田図書(いいだずしょ)という人です。
明治時代、京西小学校が台風で壊れてしまった時、本堂が仮校舎として使われました。
今、新しくなった山門を入ると左に庚申堂、太子堂、法教上人碑、芭蕉の句碑、六地蔵、大日堂などが並んでいますが、みな元の場所から移されて来たものです。
昭和28年に本堂の大修理が行われ、庫裏も鉄筋コンクリート造りに建て替えられました。

火の見やぐら跡

3.火の見やぐら跡(ひのみやぐらあと)

用賀4−11

大正2年(1913)、玉川村の中に6つの消防組が編成される事になり、用賀は、その第1部消防組を受け持ち、約40名の若者が参加しました。
そして、ここに消防器具置場が作られ、木造の火の見やぐらが建てられました。火の見やぐらは、後に、高さ15mもある鉄製のやぐらに建て替えられましたが、昭和10年(1935)、用賀に世田谷消防署の派出所ができる事となって、その役目を終えました。その後、何年かたって、この火の見やぐらは解体され、三鷹の方に移設されたとのことです。

田中橋

4.田中橋(たなかばし)

玉川台1−13

むかし、この谷沢川をはさんで両側一帯は田んぼでした。村人はこの橋を、田の中の橋だから『田中橋』と呼ぶようになりました。あまり大きくはありませんが、非常に大切な橋でした。この橋をわたる道路は厚木(大山)街道といい、神奈川の厚木まで通じています。大山の阿夫利神社は雨の神様が祀ってありますが、昔は信心深い人が多かったので、明治の頃までここを通って下町、山の手から大山詣に行きました。また、神奈川の人も牛車を曳いて、農作物を運ぶために利用しました。
約90年前の明治40年(1907)開通した玉川電車は路面電車で、通行人と一緒にこの橋を渡りましたが、現在、田園都市線はトンネルでこの橋の下を通っています。昭和46年には首都高速3号線が開通し、川をまたいで高い所を車が通るようになり、どこに橋があるのかわかりにくくなってしまいました。

延命地蔵

5.延命地蔵(えんめいじぞう)

玉川台2−3

相模に向かう大山道は、ここから瀬田に向かって二股に分かれます。右の道を行くと滋眼寺(じげんじ)前の坂道、左の道を行くと行善寺(ぎょうぜんじ)、法徳寺のそばを通る坂道、いづれの道も二子の渡しにつながっていました。
この地蔵尊は安永6年(1777)用賀村の女念仏講中の人々によって建てられたもので、前面には法界万霊という字が刻んであり、この道を通る人の安全を願い、無縁仏の供養をしたものとおもわれます。
今も、この地蔵信仰をしている人たちが「開眼延命地蔵講」という団体を作り、毎年5月24日に地蔵祭りを行い、供養祈願をしています。

旧京西小学校跡

6.旧京西小学校跡(きゅうきょうさいしょうがっこうあと)

玉川台1−5

明治12年(1879)12月、この場所に京西小学校が創立されました。瀬田と用賀の村境で、両方の村の子ども達が通うのに便利だと、みんなが相談して決めました。
はじめ、先生は2人、児童は66名でした。学校の名前は、用賀村の貿易商鈴木虎之助さんの知り合いで伊藤博文(後に日本の総理大臣になった人)という人が、東京の西に出来た学校という事で、『京西』と命名しました。
その後、明治、大正、昭和と児童数も年毎に増え、校舎も2階建てへと建替えが行われましたが、昭和14年2月、今の用賀4丁目の新校地に新校舎が完成し、懐かしい旧校舎に別れを告げ、全校児童と職員の手による三日がかりの引越しが行われました。

向大橋

7.向大橋(むかいおおはし)

玉川台1−17

むかし、この辺り一帯は用賀でも地形が平らな所でしたので、向こうにある原っぱという事でしょうか、村の人たちは向原(むかいはら)とか向(むかい)という地名で呼んでいました。
そして、谷沢川はこの向原まで流れてくると水量も多くなり川幅も広がりました。そこで、村人は、いくつかの橋をかけましたが、その一つが『向大橋』です。木の橋でしたので、大水が出た時などは流されてしまい、みんなで作り直しました。向大橋は人々の生活や農作業のため、とても大切な橋でした。
現在、この橋の横には、西用賀通りの地下深くに作られた雨水貯水溝トンネルの縦坑とポンプ設備があり、水害対策のほか谷沢川の水量確保や浄化に活躍しています。
今、谷沢川の上流はほとんど川の面影は残っていませんが、ここから下流は、春、水辺に桜が美しい花を咲かせます。

向稲荷

8.向稲荷(むかいいなり)

用賀1−26

この稲荷は、京都伏見稲荷の分霊を祀り、通称正一位向稲荷(しょういちいむかいいなり)といいます。用賀字向の住民が家内安全、五穀豊穣、商売繁盛祈願のため創建したもので、その年代は不明ですが、古文書には天保3年(1832)に初午祭が行われたとの記録がありますから、相当古くに創建されたと考えられます。この初午祭は毎年続けられており、現在は講中(こうじゅう)の子孫約20名が慣例に従い、2月の第2日曜日に行っています。当日奉納された菓子、果物などは参詣に訪れた子ども達に配られ、成長の喜びを祈願します。
現在の社は明治34年(1901)に講員が資金を出し合い、用賀の宮大工樽屋(棟梁、故高橋綱吉氏)に発注して建築したもので、その費用は50円であったと記録されています。

八幡社跡

9.八幡社跡(はちまんしゃあと)

用賀1−2

この高台一帯は、昔、八幡山といわれていた所です。そして、この西側は宇佐前、東側は宇佐後と呼ばれていました。それは、明治時代の終わり頃まで、ここに八幡様は九州大分県の宇佐八幡神社が本元で、しだいに日本全国に伝わった神さまです。そのため、八幡とか宇佐という地名はあちこちにあります。
ここの八幡様は鎌倉の鶴岡八幡宮より遷宮されたといわれますが、明治41年(1908)、他の神様と一緒に今の用賀神社に祀られる事になって、社も鳥居も取り壊されてしまいました。その後、ここは八幡山の森だけが残りました。

東条英機邸跡

10.東条英機邸跡(とうじょうひできていあと)

用賀1−10

ここは、太平洋戦争開戦(昭和16年12月8日)の時、内閣の最高責任者であった東条英機首相の私邸跡です。東条首相は陸軍大臣も兼務していましたので、首相官邸や陸軍大臣の官邸で生活する事が多かったのですが、日曜日など、家族と共にここの私邸で過ごしました。
昭和19年7月、首相を辞めてからは用賀の家での生活が中心で、庭で野菜づくりなどをしたとの事です。
そして、戦争が終わり、東条元首相は東京裁判の結果、昭和23年12月、65歳の生涯を終えました。

法教上人塚跡

11.法教上人塚跡(ほうきょうしょうにんづかあと

用賀2−25

ここは、今から300年以上も昔、寛文4年(1664)に亡くなった『お上人様』のお墓(塚)があった所です。このお上人様は人々の信望がとても厚かったようですが、不思議なことに、その名前も出身地も伝わっていません。いい伝えでは、その塚にお参りすると百日咳が治るとのことで、村人は治った時には、お礼に甘酒を供えました。そして、近所の子ども達は、その甘酒が温かいうちに、こっそり飲んでしまうこともあったようです。
今、その塚もなくなってしまい、お上人様を伝える石碑などは真福寺境内に移されて建っています。

戸越農園跡

12.戸越農園跡(とごしのうえんあと)

用賀2−16

ここは、昔、用賀有数の大地主『ぶしちさま』(正式の名は飯田武七)の畑でしたが、大山街道沿いで手広く生糸工場を経営していた広瀬商店が、後にこの土地を購入し、ミニゴルフ場を開業した所です。
そして、昭和9年(1934)には、品川区戸越にあった三井家の戸越農園が、ここに移転して来ました。
三井戸越農園は、用賀戸越農園、第一園芸戸越農園と名称は変わりましたが、昭和46年まで営業を続け、日本の園芸業界発展のため、大きな役割を果たしました。
その後、平成5年、今度は港区の戸板女子学園がここに引越しをして来て、今、戸越農園の跡地はモダンなキャンパスに生まれ変わっています。

用賀神社

13.用賀神社(ようがじんじゃ)

用賀2−16

この神社は以前神明社といい、その創立の年代は不明ですが、明治41年(1908)に一緒に祀った八幡社は、天正年間に鎌倉の鶴岡八幡宮より分霊を迎えたといわれています。この明治41年の合祀(ごうし)の際には、上用賀にあった天神社(てんじんしゃ)も合わせて祀られました。祭神(さいしん)は天照皇大神、応神天皇、菅原道真ほか数柱です。菅原道真は学問の神さまとして有名ですが、ここ用賀神社にも受験の人達のお参りがあります。
大祭(たいさい)は、以前9月25日でしたが、現在は10月9日に宵宮、10月10日に大祭が盛大に行われています。また、神田明神より移入したと伝えられる獅子頭一対があり、昔は秋の大祭に五穀豊穣、悪疫退散を祈って若衆にかつがれ、村内を練り歩いたと伝えられています。

大山道追分

14.大山道追分(おおやまみちおいわけ)

約7km4時間コース

江戸時代、相模の大山詣での人々が、毎日のように用賀を通っていた頃、この前の道に高さ1m20cm位の道標の石塔が建っていました。正面には庚申塔という字が刻んであり、右は江戸道(えどみち)、左は世田谷四谷道(せたがやよつやみち)と書いてありました。建てられたのは文政10年(1827)で、当時この三叉路の近くには、旅館や酒店、料理屋などいろいろな店が軒を並べ、用賀村の中心で、とても賑やかな所でした。
今、当時の道しるべであった庚申塔そのものは、世田谷区立郷土資料館の中庭に移され展示公開されています。

水道みち

15.水道みち(すいどうみち)

用賀3−14

この道は、大正時代、渋谷方面へ水道を引くため、水道管を埋めた場所で、はじめは、人や車の通る道ではありませんでした。水道は多摩川の水を砧で汲み上げ、岡本、用賀、桜新町を経て駒沢の給水塔に一度溜め、高さを利用して渋谷の方へ送るという方式です。
水道管を埋めた上は車など重いものが通れないよう、ところどころに石の杭が立ててありましたが、ここを通ると近道になりますので、人々は次第に利用するようになります。そして、いつからか、みんなが『水道みち』と呼ぶようになりました。今、水道みちは道幅も広がりアスファルト舗装もされて便利な道になっています。

無量寺

無量寺(むりょうじ)

用賀4−20

このお寺は、用賀の観音さまという名前で呼ばれる事もありますが、今から約400年位前、光蓮社明誉寿広和尚(こうれんしゃめいよじゅこうおしょう)が開山したお寺です。ご本尊は阿弥陀さまで、本堂脇の観音堂には木彫りの十一面観世音菩薩が安置されています。この観音さまは用賀の住人高橋六右衛門尉直住(たかはしろくうえもんのじょうなおずみ)という人が夢のお告げにより、このお寺に納めたとのいい伝えが残っており、用賀村の人達はもとより、遠く阿佐ヶ谷、高円寺、調布の方の人々からも信仰されていたとの事です。
お寺の境内には木が多く、本堂前の大銀杏は樹齢百年を超え、遠くから眺める事が出来ます。そして、このお寺の風景は、昭和59年選定の世田谷百景の一つに選ばれています。

庚申塔

17.庚申塔(こうしんとう)

用賀4−26

この庚申塔は元文5年(1740)、庚申(かのえさる)の年に建てられたもので、正面には青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)、その右には日像、雄鶏像(おんどりぞう)、左には月像、雌鶏像(めんどりぞう)が画かれています。そして、青面金剛像の下には鬼と三匹の猿(見ざる、聞かざる、言わざる)が彫ってあります。
庚申さまの信仰は中国の道教(どうきょう)の説から始まったといわれていますが、この近くの人たちは、病気にならないよう、幸せになれるようにと、この庚申さまを大切に守って来ました。また、庚申塔は用賀村の中で本村(ほんむら)や中丸(なかまる)、上(かみ)の方に行く分かれ道に建てられ道しるべの役目もしていたようです。

第六天様跡

18.第六天様跡(だいろくてんさまあと)

用賀4−38

ここは、昔、第六天という神様が祀ってあった所です。小さな社が建っていて、 その脇には力石(ちからいし)が置いてあったそうです。力石は37貫(約140kg)の重さがあり、村の若者たちは、 この石を持ち上げて力比べをしました。時がたって、第六天さまの社は無くなり力石は用賀神社の境内に移され、跡地は畑になっていました。 そして、昭和35年この地に用賀敬老会館が建設され、昭和58年には新たに用賀地区会館という施設に生まれ変わりました。 今、第六天様跡地で、大人も、子どもも第六天高齢者クラブの人たちも楽しい日々を過ごしています。

旧玉川村村長邸

19.旧玉川村村長邸(きゅうたまがわむらそんちょうてい)

上用賀3−2

ここは、旧玉川村の金子為太郎村長邸です。玉川村は明治22年(1889)、用賀、瀬田、野良田、上野毛、下野毛、尾山、等々力、奥沢という江戸時代からの古い村々が合併して出来た村の名前です。金子村長は明治45年から大正12年まで一番長く村長を務め、村の発展に尽くしました。そして、村長を辞めてからも、次の豊田正治村長たちと相談して、村全体の道路を整備していく計画(玉川全円耕地整理事業といいます)の中心的役割をつとめました。今、私たちの町は道が東西南北、碁盤の目のように出来ていますが、これは、金子村長さんたちの努力の賜物です

旧用賀名主邸

20.旧用賀名主邸(きゅうようがなぬしてい)

上用賀3−11

ここは、江戸時代の中頃、宝暦3年(1753)飯田安之烝が飯田平兵衛家(代官)から分家した家ですが、天明6年(1786)、代官家が領外追放となってからは本家を相続し、以後、栄治良(えいじろう)、安之烝(やすのじょう)、麻次郎と代々名主職(村の役人)を務めました。麻次郎は明治5年(1874)、明治維新によって名主制が廃止となって新制度のもと、戸長に就任しました。
当時、家を取り囲むように杉、欅の大きな木や竹やぶがあり、昼間でも近くの道を通るのは怖かったそうですが、昭和10年頃に行われた耕地整理事業により、まわりには広い道路が出来て昔の面影はなくなりました。

本村稲荷

21.本村稲荷(ほんむらいなり)

上用賀3−13

昔、このあたりは用賀の本村といわれた所で、高台に天神さまの社もありましたので天神山(てんじんやま)とも呼ばれていました。そして、天神さまの脇には赤い鳥居のお稲荷さんが祀られていました。明治41年、村内のいくつかの神社をまとめて用賀神社ができた時、この天神さまは、その中に一緒に祀られる事になり、ここにはお稲荷さんだけが残りました。そこで、村の人たちは、このお稲荷さんを本村稲荷と名付け毎年2月、初午の日にはお祭をして、守って来ました。また、昭和7年、昭和32年、昭和57年(1982)と25年ごとに大祭も行われました。

天神溜池跡

22.天神溜池跡(てんじんためいけあと)

上用賀1−8

ここは江戸時代の中期、享保5年(1720)に用賀村の人たちが田んぼに使う水を溜めるため、作った池の跡です。
当時、池は広さが約1000坪(3300u)あって三つに分かれていました。池の西、小高い所には天神さまの社がありましたので、村の人たちは、この池を天神の池と呼んでいました。
この池の水は田んぼに水を送りながら、谷沢川となって、下流で等々力渓谷を通って多摩川に流れて行きました。この池は昭和10年頃、この辺りの道路整備工事(耕地整理事業といいます)の時、すっかり埋め立てられ、今は住宅地に変わっています。そして、その一部が天神児童遊園になっています。

衛生材料廠跡

23.衛生材料廠跡(えいせいざいりょうしょうあと)

上用賀1−18

この辺り一帯は、昔、作物の良くできる畑でしたが、昭和4年(1929)陸軍衛生材料廠(陸軍が使う薬などを作ったり保管する施設)が芝白金という所から引越して来ました。そして、太平洋戦争の頃にはたくさんの人が働いていました。朝晩、玉川電車の用賀駅からここへの道は人の列が出来たそうです。正午になると昼休みの時間を知らせるためのサイレンが大きく鳴ったとのことです。
昭和20年春には米軍機による空襲(飛行機から爆弾を落とすこと)も受けています。
そして戦争が終わって、ここは私たちの日常生活を支える薬や食品を試験する国立衛生試験所として新しい役目をにない、平成9年7月から国立医薬品食品総合研究所と名称が変わりました。

覆馬場

24.覆馬場(インドアアリーナ おおいばば)

上用賀1−21

この建物は、雨天時や室内競技などのためにつくられた馬場で、大きな屋根で覆ってあるので覆馬場(インドアアリーナ)といいます。
馬事公苑が、昭和39年(1964)に開かれた第18回オリンピック東京大会の馬術競技会場に決まると、主会場となった芝馬場のほか、練習などのための関連施設が整備されました。覆馬場(インドアアリーナ)もそうした施設の一つで、はじめは事務所前の角馬場(メインアリーナ)のところに建てる予定ででしたが、工事によって伐られてしまう樹木を残すために、現在の場所に変更して建設されました。
覆馬場(インドアアリーナ)としては日本一の大きさを誇るこの建物は、現在でも各種大会や練習などに使用されています。

北見橋跡

25.北見橋跡(きたみばしあと)

上用賀2−3

昔、ここに品川用水が流れていました。この用水は、江戸時代の初め、玉川上水を分水して品川領戸越まで引いたものです。用賀村は、この用水に三カ所、橋をかけました。弦巻橋、中の橋、北見橋です。北見橋を村人は『きたんばし』と呼んでいました。そして、『きたんばし』は寛政6年(1794)石の橋と変わりました。その時この橋を利用するたくさんの村の人々は、橋がいつまでも安全に渡れるよう、ここに供養塔を建てました(今、この供養塔は世田谷区経堂5丁目の長島大榎公園内にあります)。そして、大正3年(1914)この橋は再び改修され、幅の広い橋に生まれ変わりましたが、昭和25〜27年にかけて品川用水が埋め立てられた時、その橋もなくなってしまいました。

馬事公苑

26.馬事公苑(ばじこうえん)

上用賀2−1

JRA馬事公苑は、昭和15年(1940)帝国競馬協会により馬術の普及と騎手養成のために開設されました。また、同年東京で開催予定だった第12回オリンピック大会の馬術競技会場でしたが、戦争により中止となり、以後軍馬の改良、訓練などにも使われていました。
昭和39年、第18回オリンピック東京大会が開催された時は、馬術競技の主会場となりました。入り口右奥の芝馬場が競技に使われた記念馬場で、その横にオリンピック記念碑が木立に囲まれて建っています。
約5万坪(165,000u)の苑内は、武蔵野の面影を残す雑木林や八重桜の林など緑にあふれ、四季折々の自然に出会えます。
現在も毎週末に協議会が開かれる馬事公苑ですが、ホースショー(5月)や愛馬の日(9月23日)、馬に親しむ日(毎月1回、日曜日)などの行事もあります。また庭園や遊園地もあり、若い人や家族連れにも親しまれています。

東京農大農場跡

27.東京農大農場跡(とうきょうのうだいのうじょうあと)

上用賀4−3

東京農業大学は、明治26年(1893)、榎本武揚により創立された東京農学校を母体とする、我が国最初の私立農学校です。開校時は文京区小石川でしたが、その後、渋谷区の青山常盤松に移りました。昭和20年、くうしゅうで常盤松校舎が焼けたので、用賀農場に近い旧陸軍機甲整備学校地の払い下げを受け、翌年から現在の世田谷キャンパスに移転しました。
用賀農場は、大正5年(1916)に開場しました。
花卉(生花)、果樹園、野菜、桑畑、飼料作物、家畜などの研究農場を持ち、世田谷の農業近代化に大きく貢献した用賀農場でしたが、まわりの宅地化が進み手狭となったため、昭和35年、厚木に移転しました。

谷沢川湧水池跡

28.谷沢川湧水池跡(やざわゆうすいちあと)

上用賀6−22

谷沢川は用賀、上用賀地域の湧水や溜池を水源として大山道近くで合流、田中橋の下をくぐって中町、上野毛を通って等々力渓谷を形成し、多摩川に流れ込んでいる全長3800mの川ですが、その湧水池の一つが、ここにありました。池の水は湧き出るというより、世田谷通りの北側、東京農大の近くや宇山の方から流れ出た小川の水がここに溜まったという方が正しいかも知れません。池には葦が繁り、木が2本生えて小島もあったそうです。コイやウナギのほか小さな魚もいましたので、近所の子ども達にとっては格好の遊び場でした。
また、この池のほかに上用賀4丁目には『田頭池』(でんがしらいけ)という小さな湧水池もありました。

三峯神社

29.三峯神社(みつみねじんじゃ)

上用賀6−4

三峯神社の本社は埼玉県秩父郡大滝村にあり、正しくは白岩山、雲取山、妙法岳を総称して三峯と呼び、その一角に日本武尊(やまとたけるのみこと)が祀った神社といわれています。のちに、狼、山犬、猪など、野生の動物から身を守り、諸難を除く神様として関東一円に、その信仰が広がりました。
この社は地域の三峯講の人達によって守られており、毎年、交替で代表の人が秩父の三峯本社まで参拝に行き(代参といいます)、盗賊除御守護(とうぞくよけごしゅご)、火除御守護(ひぶせごしゅご)、諸さい除御守護と三種の神札(しんさつ)をもらって来ます。そして講に入っている人の家では入り口や台所に、その御札を貼って、家の安全をお願いします。
なお、境内右側奥には宝暦6丙子年(1756)10月建立のお地蔵さま、鳥居の手前右側には天明7丁未年(1788)10月と年号が刻まれている庚申塔が建っています。いずれも昭和9年以後の耕地整理事業の時にここに移されて来たものです。

砧パークブリッジ

30.砧パークブリッジ(きぬたぱーくぶりっじ)

上用賀5−14

平成7年6月に完成した、環状8号線で最もおしゃれで快適な歩道橋、それが砧パークブリッジです。
これまでの歩道橋は、お年寄りや身体に障害のある人たちにとっては利用しにくいものでしたが、この橋には車椅子でものぼることのできるスロープがつけられています。また、隣の上用賀アートホールのエレベータを利用して直接橋の上に出ることもできます。
ゆるやかな勾配のスロープをたどれば、そのまま砧公園の園路へと続き、世田谷美術館も間近です。
砧パークブリッジはお年寄りや障害をもつ人、だれもが使える橋として、多くの人に親しまれています。

洗い場

31.洗い場(あらいば)

上用賀5−15

今は蓋がされていて見えませんが、このすぐ脇を谷沢川が流れています。昭和の中頃までは、この川の所々に洗い場が設けられ、近隣の人たちに利用されていました。
ここは、主に本村(用賀4町目、上用賀3町目)の農家が、市場に野菜を出荷するために使っていた洗い場で、用賀には上(かみ)、中丸(なかまる)、下(しも)、向(むかい)にも洗い場がありました。
当時の用賀は農業が盛んで、昭和26年には近隣の有志が集まって『用賀農事研究会』を設立、品種改良や技術革新など農業の発展に大きな役割を果たしました。またこの頃の谷沢川は水もきれいで、カワエビやゲンゴロウ、ヤゴ、イモリ、カエル、ザリガニ、アオダイショウなどが棲み、子ども達の格好の遊び場でした。

用賀いらか道

32.用賀いらか道(ようがいらかみち)

上用賀5−7

舗装に使った瓦から「いらか道」と呼ばれるこの道は、”楽しく歩けるまちづくり”の一環として昭和61年につくられました。田園都市線の用賀駅から世田谷美術館のある砧公園まで続く約1kmの所々には、人工の流れや噴水、休憩のためのベンチ、木陰に覆われた並木道など、さまざまな工夫がされています。
舗装の瓦をよく見ると文字が刻まれています。これは、鎌倉時代初期の歌人、藤原定家によってまとめられた小倉百人一首という歌集の中に入っている和歌で、今ではお正月のカルタでお馴染みになっています。
歌を読みながら道をたどれば、目の前に新しい用賀の顔、世田谷ビジネススクエアの高層ビルが現れます。

中丸地蔵

33.中丸地蔵(なかまるじぞう)

上用賀5−7

お地蔵さまの正式の名は地蔵菩薩、遠くインドの神話の中に生まれて、仏教の中に取り入れられ、奈良時代、中国大陸を経て日本に伝えられた仏さまです。
左手に宝の玉を持ち、右手に杖、頭は坊主頭で、やさしい顔をしているので子どもにも親しみの持てる仏さまです。この中丸のお地蔵さまは、やはり、旧道の道しるべの役目をしていたようで、お地蔵さまの台座には右府中道、左大山道という字が刻んであります。今から約200年前、享和2年(1802)、用賀村の女念仏講の人たちによって建てられました。今、旧道はなくなってしまいましたがお地蔵さまは、元のまま北向きに建っています。

てくたくぶっく

てくたくぶっく

世田谷ふるさとめぐり(用賀・馬事公苑コース)

てくたくぶっくは下記で販売しております
世田谷区玉川総合支所地域振興課
地域振興・防災係
TEL03ー3702ー1131(代表)
用賀出張所・二子玉川区民サービスセンター
(二子玉川分室)
(土曜・日曜・祭日は取扱っておりません)


条通り・町の歩み・用賀の

条通り

用賀条通りマップ


用賀の街に碁盤の目のような道ができたのは昭和10年代、畑や竹薮などが住宅地に変わっていくと目印が無くなり、用賀駅を降りて用賀中学校やふじみ荘、関東中央病院等へ訪れる人が四つ角で途方にくれている姿を何度も見かけました。そこで考え出されたのが手作りの道案内『用賀条通り』です。つづく

→用賀条通りを見る

古地図

用賀の歴史地図

資料1:用賀地図(明治初期)
資料2:用賀の社寺・石仏など
資料3:郷土の足跡(耕地整理前と耕地整理後)

(資料1の地図を参考に資料2の地図が作成されています。)