〔京西小学校のできたころ〕
@学校ができるまで―明治の初めごろの用賀
今から百二十年前の用賀付近は、どんな様子だったのでしょうか。用賀駅付近から環八にかけて、今のように大きなビルや銀行、商店街、住宅などが立ちならんでいたのでしょうか。
このあたりは東京府荏原郡といい、一面に野原や雑木林、田畑が続く農村でした。はるか遠くには富士山がくっきりと見え、のんびりとした武蔵野の自然が広がっていました。
林に囲まれて、神社やお寺、桑畑があり、カイコを飼ってマユを取る風景が見られました。当時の用賀村では、養蚕業が盛んでした。
また、村の中央には大山道(もとの玉電通り)が通っていて、道ぞいに製糸工場、酒工場、旅館などがあり、にぎわっていました。
A寺子屋から学校へ
明治の初めごろ、政府は学問に力を入れ、国民が誰でも入学できる学校を作ることにしました。
用賀村には、明治四年ごろ、中島吾水という先生が、真福寺に寺子屋を開いて、子どもたちを教えていたということです。
明治七年、等々力に玉川学校ができました。そこで、用賀村、瀬田村の人々は、「自分たちの村にも学校を作ろう」と、考えるようになりました。
代表の人々が集まって、どのようにして学校を作るか、相談しました。用賀村と瀬田村は、このころ連合村といって、一つの村にまとまったところだったのです。
「村に学校を作ろう」と決心した用賀村、瀬田村の人々は、早速仕事に取りかかりました。まずは、お金を集めることから始めたのです。村の人々は、喜んでお金を出し合いました。その当時としては、大金の八百数十円が集まったそうです。今のお金に直すと、およそ一千万円ぐらいになります。当時白米20sが約一円でした。
B京西小学校の誕生
いよいよ学校の建築が始まりました。当時の学校建築は、現在に比べてずっと粗末なものでした。木造校舎の平屋ですが、いろいろな苦労があったようです。
まず、学校の名前をつけなければなりません。人々は知恵をしぼって相談することになりました。代表者の一人だった鈴木寅之助さんは、国の大切な仕事をしている伊藤博文公につけていただこうとお願いにあがりました。鈴木寅之助さんは用賀村出身の貿易商、事業家で、伊藤博文公とは親しい間柄だったそうです。
「そうだ、京西と命名しよう。東京の西に新しい学校が生まれた。この地点から未来の日本を背負う若者が育っていくのだ。」
じっと腕組をして考えこんでおられた伊藤博文公は、やおらヒワの木の板に大きく「亰西学校」と、その名を書いてくださいました。
これが学校の宝として残っている板の額です。
C京西の宝
京西小学校には、いろいろな宝物(伊藤博文公の書かれた板の額・京西学校記・石どうろう・京西の松)があります。歴史と伝統に支えられた立派な宝を大切にしましょう。
D生まれたての学校
明治十二年十二月十日今からちょうど百二十年前のことです。村の人々の努力がみのり、わら屋根の校舎で開校したのです。
今日の日を、どんなにか首を長くして待ったことでしょう。この学校は、現在の玉川台区民センター付近にあり、用賀村と瀬田村の境にありました。
学校とはいっても、教室一、職員室一の小さな学校で、わら屋根で障子がはまっているかわいらしいものでした。それでも自分達の力でできた学校なので、村の人々は大喜びでした。みんなで甘酒を飲んで祝い合ったそうです。
開校を祝って、東京府(今の東京都)から、東京府地図、日本全図、尺度(長さを測るもの)が贈られました。
この日入学した児童は六十六人で、先生は二人でした。この六十六人の中には、現在京西小へ通っている人のひいおじいさん、ひいおばあさんが含まれていたかもしれません。つごう親子四代にわたって京西小学校に通っていることになります。
こうして、希望と勉学に燃える志をいだいて、京西小学校は出発したのです。京西小学校の名付け親となってくださった伊藤博文公も、大そう喜んでくださったことでしょう。
教育を受けて才能を伸ばすことができるようになった子ども達は、家庭の仕事を手伝いながら、一生けん命に勉強した時代でした。
E京西小学校創立以来の児童数の推移
明治12年〜平成11年
 (創立120周年記念誌)
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