京西学校記



「京西学校記」

明治13年2月、細川潤次郎氏が「京西学校記」を執筆され、これを学校に贈られた。
これは、伊藤博文公が細川氏にあっせんしたので、同氏の執筆に至ったと思われる。

(創立百周年記念誌)



京西学校の記(書き下し文)

明治五年、上の諭の略に曰く、「人の身を立て、産を治め、其の生を遂ぐる者は、其の身を修め、智を開くを以って才芸を長ずるなり。而して身を修め、智を開き才芸を長ずる者は、学びて能はざるにあらざるなり。是れ学校をここに設くる所以なり。」
 曩に学校の設けあれども、其の制、未だ備はらず。人は率学問をして士となり、以って上に事ふることを信ず。農工商及び媚女の如きは、竟に学問の何物なるかを知らず。士以上に至れども、また学問して身を立つるの基となすを省みず。式、虚文を講じ、或は空理を談じて、名づけて国家のためなりと曰ふ。
而して之を実地に措くべからず。其の弊や産を破り、家を亡すに至る。故に人、学ばざるべからず。而して、学ぶ者は、其の趨向を謬るべからず。今学制を領て、以って教則を改む。庶幾は、邑に学ばざるの家無く、学ばざるの人無からんことを。令既に下りぬ。ここかしこに公私の学校を建て、亀勉して事をなす。只其の後を恐るるのみ。然れども、縣官の督察は或は其の当を失す。邑長は誘き掖れども、未だ其の方を得ず。頃問うものこれ有り。甚しきは激して変を生ず。聖旨を体すと曰ふといへども、聖旨、豈果してかくの如くならんや。余、頃聞く、荏原郡瀬田、用賀の二村の人、京西学校を建てんと。而して深く其の処事の得序を歎く。蓋し、学制の頒布せられしより、数年後れども、二村の子弟は不学莫からんと。然れども、未だ学校の設あらず。十一年に村人、協力して出金若干あり。将に以って学校の費に供せんとす。而るに猶未だ興作するに遑あらず。十二年十月、村人再び会して、此の事を謀る。二村三百戸の人、翕然として異言なかりき。争ひて出金して、これを助け、遂に金一千円を得たり。十一月に、仮りに用賀村の真福寺を以って学舎となす。この地は稍、偏よりて、生徒の風雨を冒して来往するには、皆これを苦とす。乃、二村の中央の地を擇びて、其の月の二五日を以って、工を飭のへ、材を鳩むることを始む。五十有五日にして工を訖はる。規模は宏敝、締構は堅貞、教師、書籍、器具備はらざるなし。而して来学する者、愈 衆し。余、謂らく、是れ即ち処事の得序は、決して遅緩にあらざるなりと。二村の父兄は既に重ねて学ばんことを知り、子弟もまた学に就く。然れども久しくして未だ興作有らず。人々は既に学校は必ず設けざるべからずして、且つ、金の乏しきを患へざれと知る。然れども猶、仏寺をかりて、以ってこれを試ろむ。果たして其の不便を見るなり。是において、土木を事とするを始む。議は決し易く、而して、人は事の速やかに竣ることに病まず。而して物皆備はる。二村の人の学校を建つ。善く聖旨を体すと謂ふべし。今より後、二村の子弟、此の学校に入り、虚文を講ずること勿く、空理を談ずること勿く、孝悌の事を行ひて、礼儀の俗しとなし、専ら其の学識を農工諸科に用ひて、物力を豊饒に致さんと。既に冨み、且つ庶ければ則ち始めて聖旨に負かずとなす。所謂、身を修め智を開き、才芸を長じ、身を立て、産を治むるを以って、其の生を遂はる者なり。我れ二村の子弟において、更に厚くこれを望むこと有り。二村は多摩河の上りにありて、京城を距こと三四里に過ぎずと聞く。余、他日、官事少しく暇とならば、則ち将に往きてこれを観んとす。

   明治十三年二月十四日     細川潤撰并書

(創立百周年記念誌)


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