世田谷ふるさとめぐり(用賀・馬事公苑コース)南コースその3
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事務局・世田谷区玉川総合支所地域振興・防災係
TEL03−3702−1131(代表)
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11.法教上人塚跡(ほうきょうしょうにんづかあと)
用賀2−25
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ここは、今から300年以上も昔、寛文4年(1664)に亡くなった『お上人様』のお墓(塚)があった所です。このお上人様は人々の信望がとても厚かったようですが、不思議なことに、その名前も出身地も伝わっていません。いい伝えでは、その塚にお参りすると百日咳が治るとのことで、村人は治った時には、お礼に甘酒を供えました。そして、近所の子ども達は、その甘酒が温かいうちに、こっそり飲んでしまうこともあったようです。
今、その塚もなくなってしまい、お上人様を伝える石碑などは真福寺境内に移されて建っています。
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12.戸越農園跡(とごしのうえんあと)
用賀2−16
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ここは、昔、用賀有数の大地主『ぶしちさま』(正式の名は飯田武七)の畑でしたが、大山街道沿いで手広く生糸工場を経営していた広瀬商店が、後にこの土地を購入し、ミニゴルフ場を開業した所です。
そして、昭和9年(1934)には、品川区戸越にあった三井家の戸越農園が、ここに移転して来ました。
三井戸越農園は、用賀戸越農園、第一園芸戸越農園と名称は変わりましたが、昭和46年まで営業を続け、日本の園芸業界発展のため、大きな役割を果たしました。
その後、平成5年、今度は港区の戸板女子学園がここに引越しをして来て、今、戸越農園の跡地はモダンなキャンパスに生まれ変わっています。
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用賀2−16
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この神社は以前神明社といい、その創立の年代は不明ですが、明治41年(1908)に一緒に祀った八幡社は、天正年間に鎌倉の鶴岡八幡宮より分霊を迎えたといわれています。この明治41年の合祀(ごうし)の際には、上用賀にあった天神社(てんじんしゃ)も合わせて祀られました。祭神(さいしん)は天照皇大神、応神天皇、菅原道真ほか数柱です。菅原道真は学問の神さまとして有名ですが、ここ用賀神社にも受験の人達のお参りがあります。
大祭(たいさい)は、以前9月25日でしたが、現在は10月9日に宵宮、10月10日に大祭が盛大に行われています。また、神田明神より移入したと伝えられる獅子頭一対があり、昔は秋の大祭に五穀豊穣、悪疫退散を祈って若衆にかつがれ、村内を練り歩いたと伝えられています。
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14.大山道追分(おおやまみちおいわけ)
用賀3−14
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江戸時代、相模の大山詣での人々が、毎日のように用賀を通っていた頃、この前の道に高さ1m20cm位の道標の石塔が建っていました。正面には庚申塔という字が刻んであり、右は江戸道(えどみち)、左は世田谷四谷道(せたがやよつやみち)と書いてありました。建てられたのは文政10年(1827)で、当時この三叉路の近くには、旅館や酒店、料理屋などいろいろな店が軒を並べ、用賀村の中心で、とても賑やかな所でした。
今、当時の道しるべであった庚申塔そのものは、世田谷区立郷土資料館の中庭に移され展示公開されています。
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15.水道みち(すいどうみち)
用賀3−14
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この道は、大正時代、渋谷方面へ水道を引くため、水道管を埋めた場所で、はじめは、人や車の通る道ではありませんでした。水道は多摩川の水を砧で汲み上げ、岡本、用賀、桜新町を経て駒沢の給水塔に一度溜め、高さを利用して渋谷の方へ送るという方式です。
水道管を埋めた上は車など重いものが通れないよう、ところどころに石の杭が立ててありましたが、ここを通ると近道になりますので、人々は次第に利用するようになります。そして、いつからか、みんなが『水道みち』と呼ぶようになりました。今、水道みちは道幅も広がりアスファルト舗装もされて便利な道になっています。
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