世田谷ふるさとめぐり(用賀・馬事公苑コース)南コースその2
お問い合わせは玉川地域活動団体連絡協議会
事務局・世田谷区玉川総合支所地域振興・防災係
TEL03−3702−1131(代表)
-
-
6.旧京西小学校跡(きゅうきょうさいしょうがっこうあと)
玉川台1−5
-
明治12年(1879)12月、この場所に京西小学校が創立されました。瀬田と用賀の村境で、両方の村の子ども達が通うのに便利だと、みんなが相談して決めました。
はじめ、先生は2人、児童は66名でした。学校の名前は、用賀村の貿易商鈴木虎之助さんの知り合いで伊藤博文(後に日本の総理大臣になった人)という人が、東京の西に出来た学校という事で、『京西』と命名しました。
その後、明治、大正、昭和と児童数も年毎に増え、校舎も2階建てへと建替えが行われましたが、昭和14年2月、今の用賀4丁目の新校地に新校舎が完成し、懐かしい旧校舎に別れを告げ、全校児童と職員の手による三日がかりの引越しが行われました。
- 目次に戻る
-
7.向大橋(むかいおおはし)
玉川台1−17
-
むかし、この辺り一帯は用賀でも地形が平らな所でしたので、向こうにある原っぱという事でしょうか、村の人たちは向原(むかいはら)とか向(むかい)という地名で呼んでいました。
そして、谷沢川はこの向原まで流れてくると水量も多くなり川幅も広がりました。そこで、村人は、いくつかの橋をかけましたが、その一つが『向大橋』です。木の橋でしたので、大水が出た時などは流されてしまい、みんなで作り直しました。向大橋は人々の生活や農作業のため、とても大切な橋でした。
現在、この橋の横には、西用賀通りの地下深くに作られた雨水貯水溝トンネルの縦坑とポンプ設備があり、水害対策のほか谷沢川の水量確保や浄化に活躍しています。
今、谷沢川の上流はほとんど川の面影は残っていませんが、ここから下流は、春、水辺に桜が美しい花を咲かせます。
- 目次に戻る
-
8.向稲荷(むかいいなり)
用賀1−26
-
この稲荷は、京都伏見稲荷の分霊を祀り、通称正一位向稲荷(しょういちいむかいいなり)といいます。用賀字向の住民が家内安全、五穀豊穣、商売繁盛祈願のため創建したもので、その年代は不明ですが、古文書には天保3年(1832)に初午祭が行われたとの記録がありますから、相当古くに創建されたと考えられます。この初午祭は毎年続けられており、現在は講中(こうじゅう)の子孫約20名が慣例に従い、2月の第2日曜日に行っています。当日奉納された菓子、果物などは参詣に訪れた子ども達に配られ、成長の喜びを祈願します。
現在の社は明治34年(1901)に講員が資金を出し合い、用賀の宮大工樽屋(棟梁、故高橋綱吉氏)に発注して建築したもので、その費用は50円であったと記録されています。
- 目次に戻る
-
9.八幡社跡(はちまんしゃあと)
用賀1−2
-
この高台一帯は、昔、八幡山といわれていた所です。そして、この西側は宇佐前、東側は宇佐後と呼ばれていました。それは、明治時代の終わり頃まで、ここに八幡様は九州大分県の宇佐八幡神社が本元で、しだいに日本全国に伝わった神さまです。そのため、八幡とか宇佐という地名はあちこちにあります。
ここの八幡様は鎌倉の鶴岡八幡宮より遷宮されたといわれますが、明治41年(1908)、他の神様と一緒に今の用賀神社に祀られる事になって、社も鳥居も取り壊されてしまいました。その後、ここは八幡山の森だけが残りました。
- 目次に戻る
-
10.東条英機邸跡(とうじょうひできていあと)
用賀1−10
-
ここは、太平洋戦争開戦(昭和16年12月8日)の時、内閣の最高責任者であった東条英機首相の私邸跡です。東条首相は陸軍大臣も兼務していましたので、首相官邸や陸軍大臣の官邸で生活する事が多かったのですが、日曜日など、家族と共にここの私邸で過ごしました。
昭和19年7月、首相を辞めてからは用賀の家での生活が中心で、庭で野菜づくりなどをしたとの事です。
そして、戦争が終わり、東条元首相は東京裁判の結果、昭和23年12月、65歳の生涯を終えました。
- 目次に戻る
このホームページについてのご意見やご感想は
youga@youga.netまでお寄せ下さい。