世田谷ふるさとめぐり(用賀・馬事公苑コース)南コースその1

お問い合わせは玉川地域活動団体連絡協議会
事務局・世田谷区玉川総合支所地域振興・防災係
TEL03−3702−1131(代表)

1.玉電用賀駅跡(たまでんようがえきあと)

用賀4−3

明治40年(1907)4月、この道に玉川電車が通りました。ガタゴトと路面を走る電車で多摩川の砂利も運びましたのでジャリデンとも呼ばれました。
石油ランプを使っていた沿線の家々には電灯もつくようになりました。電気を使う生活の始まりです。
用賀駅には電車の折返所もでき、駅前にあった用賀梅林には赤坂や青山方面から子ども達が遠足に来ました。
駅の待合室は子ども達のたまり場となり、近くの子ども達もよく遊びました。
数々の出会い、別れの想い出を綴りながら、昭和44年(1969)5月、玉川電車廃止にともない、玉電用賀駅はその姿を消しました。

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2.真福寺(しんぷくじ)

用賀4−14

このお寺は今から約400年前に創建されたといわれ、大山道(おおやまみち)に山門があって赤く塗ってあったので赤門寺とも呼ばれていました。ご本尊は大日如来という仏さまで、開山は宗円和尚、開基した人は飯田図書(いいだずしょ)という人です。
明治時代、京西小学校が台風で壊れてしまった時、本堂が仮校舎として使われました。
今、新しくなった山門を入ると左に庚申堂、太子堂、法教上人碑、芭蕉の句碑、六地蔵、大日堂などが並んでいますが、みな元の場所から移されて来たものです。
昭和28年に本堂の大修理が行われ、庫裏も鉄筋コンクリート造りに建て替えられました。

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3.火の見やぐら跡(ひのみやぐらあと)

用賀4−11

大正2年(1913)、玉川村の中に6つの消防組が編成される事になり、用賀は、その第1部消防組を受け持ち、約40名の若者が参加しました。
そして、ここに消防器具置場が作られ、木造の火の見やぐらが建てられました。火の見やぐらは、後に、高さ15mもある鉄製のやぐらに建て替えられましたが、昭和10年(1935)、用賀に世田谷消防署の派出所ができる事となって、その役目を終えました。その後、何年かたって、この火の見やぐらは解体され、三鷹の方に移設されたとのことです。
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4.田中橋(たなかばし)

玉川台1−13

むかし、この谷沢川をはさんで両側一帯は田んぼでした。村人はこの橋を、田の中の橋だから『田中橋』と呼ぶようになりました。あまり大きくはありませんが、非常に大切な橋でした。この橋をわたる道路は厚木(大山)街道といい、神奈川の厚木まで通じています。大山の阿夫利神社は雨の神様が祀ってありますが、昔は信心深い人が多かったので、明治の頃までここを通って下町、山の手から大山詣に行きました。また、神奈川の人も牛車を曳いて、農作物を運ぶために利用しました。
約90年前の明治40年(1907)開通した玉川電車は路面電車で、通行人と一緒にこの橋を渡りましたが、現在、田園都市線はトンネルでこの橋の下を通っています。昭和46年には首都高速3号線が開通し、川をまたいで高い所を車が通るようになり、どこに橋があるのかわかりにくくなってしまいました。

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5.延命地蔵(えんめいじぞう)

玉川台2−3

相模に向かう大山道は、ここから瀬田に向かって二股に分かれます。右の道を行くと滋眼寺(じげんじ)前の坂道、左の道を行くと行善寺(ぎょうぜんじ)、法徳寺のそばを通る坂道、いづれの道も二子の渡しにつながっていました。
この地蔵尊は安永6年(1777)用賀村の女念仏講中の人々によって建てられたもので、前面には法界万霊という字が刻んであり、この道を通る人の安全を願い、無縁仏の供養をしたものとおもわれます。
今も、この地蔵信仰をしている人たちが「開眼延命地蔵講」という団体を作り、毎年5月24日に地蔵祭りを行い、供養祈願をしています。

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