世田谷ふるさとめぐり(用賀・馬事公苑コース)北コースその2
お問い合わせは玉川地域活動団体連絡協議会
事務局・世田谷区玉川総合支所地域振興・防災係
TEL03−3702−1131(代表)
-
22.天神溜池跡(てんじんためいけあと)
上用賀1−8
-
ここは江戸時代の中期、享保5年(1720)に用賀村の人たちが田んぼに使う水を溜めるため、作った池の跡です。
当時、池は広さが約1000坪(3300u)あって三つに分かれていました。池の西、小高い所には天神さまの社がありましたので、村の人たちは、この池を天神の池と呼んでいました。
この池の水は田んぼに水を送りながら、谷沢川となって、下流で等々力渓谷を通って多摩川に流れて行きました。この池は昭和10年頃、この辺りの道路整備工事(耕地整理事業といいます)の時、すっかり埋め立てられ、今は住宅地に変わっています。そして、その一部が天神児童遊園になっています。
- 目次に戻る
-
23.衛生材料廠跡(えいせいざいりょうしょうあと)
上用賀1−18
-
この辺り一帯は、昔、作物の良くできる畑でしたが、昭和4年(1929)陸軍衛生材料廠(陸軍が使う薬などを作ったり保管する施設)が芝白金という所から引越して来ました。そして、太平洋戦争の頃にはたくさんの人が働いていました。朝晩、玉川電車の用賀駅からここへの道は人の列が出来たそうです。正午になると昼休みの時間を知らせるためのサイレンが大きく鳴ったとのことです。
昭和20年春には米軍機による空襲(飛行機から爆弾を落とすこと)も受けています。
そして戦争が終わって、ここは私たちの日常生活を支える薬や食品を試験する国立衛生試験所として新しい役目をにない、平成9年7月から国立医薬品食品総合研究所と名称が変わりました。
- 目次に戻る
-
24.覆馬場(インドアアリーナ おおいばば)
上用賀1−21
-
この建物は、雨天時や室内競技などのためにつくられた馬場で、大きな屋根で覆ってあるので覆馬場(インドアアリーナ)といいます。
馬事公苑が、昭和39年(1964)に開かれた第18回オリンピック東京大会の馬術競技会場に決まると、主会場となった芝馬場のほか、練習などのための関連施設が整備されました。覆馬場(インドアアリーナ)もそうした施設の一つで、はじめは事務所前の角馬場(メインアリーナ)のところに建てる予定ででしたが、工事によって伐られてしまう樹木を残すために、現在の場所に変更して建設されました。
覆馬場(インドアアリーナ)としては日本一の大きさを誇るこの建物は、現在でも各種大会や練習などに使用されています。
- 目次に戻る
-
25.北見橋跡(きたみばしあと)
上用賀2−3
-
昔、ここに品川用水が流れていました。この用水は、江戸時代の初め、玉川上水を分水して品川領戸越まで引いたものです。用賀村は、この用水に三カ所、橋をかけました。弦巻橋、中の橋、北見橋です。北見橋を村人は『きたんばし』と呼んでいました。そして、『きたんばし』は寛政6年(1794)石の橋と変わりました。その時この橋を利用するたくさんの村の人々は、橋がいつまでも安全に渡れるよう、ここに供養塔を建てました(今、この供養塔は世田谷区経堂5丁目の長島大榎公園内にあります)。そして、大正3年(1914)この橋は再び改修され、幅の広い橋に生まれ変わりましたが、昭和25〜27年にかけて品川用水が埋め立てられた時、その橋もなくなってしまいました。
- 目次に戻る
-
26.馬事公苑(ばじこうえん)
上用賀2−1
-
JRA馬事公苑は、昭和15年(1940)帝国競馬協会により馬術の普及と騎手養成のために開設されました。また、同年東京で開催予定だった第12回オリンピック大会の馬術競技会場でしたが、戦争により中止となり、以後軍馬の改良、訓練などにも使われていました。
昭和39年、第18回オリンピック東京大会が開催された時は、馬術競技の主会場となりました。入り口右奥の芝馬場が競技に使われた記念馬場で、その横にオリンピック記念碑が木立に囲まれて建っています。
約5万坪(165,000u)の苑内は、武蔵野の面影を残す雑木林や八重桜の林など緑にあふれ、四季折々の自然に出会えます。
現在も毎週末に協議会が開かれる馬事公苑ですが、ホースショー(5月)や愛馬の日(9月23日)、馬に親しむ日(毎月1回、日曜日)などの行事もあります。また庭園や遊園地もあり、若い人や家族連れにも親しまれています。
- 目次に戻る
-
27.東京農大農場跡(とうきょうのうだいのうじょうあと)
上用賀4−36
-
東京農業大学は、明治26年(1893)、榎本武揚により創立された東京農学校を母体とする、我が国最初の私立農学校です。開校時は文京区小石川でしたが、その後、渋谷区の青山常盤松に移りました。昭和20年、くうしゅうで常盤松校舎が焼けたので、用賀農場に近い旧陸軍機甲整備学校地の払い下げを受け、翌年から現在の世田谷キャンパスに移転しました。
用賀農場は、大正5年(1916)に開場しました。
花卉(生花)、果樹園、野菜、桑畑、飼料作物、家畜などの研究農場を持ち、世田谷の農業近代化に大きく貢献した用賀農場でしたが、まわりの宅地化が進み手狭となったため、昭和35年、厚木に移転しました。
- 目次に戻る
このホームページについてのご意見やご感想は
youga@youga.netまでお寄せ下さい。